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ノラの聖パウリノ司教   St. Paulinus a Nola E.        記念日 6月 22日


 313年かのコンスタンチノ大帝が自らもキリスト教に帰依すると共に、有名なミラノの勅令を以て聖教信仰の自由を与えてからは、国民も先を争って受洗し、聖会は一時に隆盛に赴いた。しかしそれは量的に見ての話で、質的には遺憾な点のある信者も少なくなかった。というのは、真に心の要求から出たのではなく、ただ流行を追うような浅薄極まる気持ちで、十分教理も研究せず入信した人々も多数あったからである。殊にその弊は上流の人士に甚だしく、今語らんとする聖ポンチオ・メロピオ・パウリノの両親もそうした仲間であった。即ち身元老院議員にして貴族なる父も母も、名こそ信者ながらその日常には異教徒にも劣りかねぬひんしゅくすべき生活ぶりが見いだされたのである。

 聖パウリノは353年フランスのボルドーに生まれた。何しろ両親が今も言ったような宗教に冷淡な人々なので、その子たる彼が彼等からキリスト教的な良い感化を受ける事などは到底望まれぬ。第一彼は洗礼すら授からなかった。そして唯もう世間的栄達を目的として、当時大学者にして大詩人の噂が高かったアウソニオに師事し、一心に勉強したが、生来その方の才能に恵まれていたものか学業の成績は抜群で、僅か25歳の若さで早くもガリア(今のフランス)の執政官に任ぜられる光栄をになった。
 それから莫大な資産を有する彼は、風光明媚なイタリアのカンパーニャに行って住み、同じく資産家の、信仰も厚いテラシアというスペインの貴婦人と結婚した。その内に彼は今度こそ天主の聖寵に依って霊に目覚める期に遭遇したのである。
 まず彼は信心深い妻の感化によって熱心に準備し、それまで受けずにいた洗礼を故郷ボルドーの司教デルフィノから授かった。その時彼はまた当時の偉大な聖人、ツールの司教マルチノにも逢い、その祈りによって眼の病がたちまち癒える恵みをも得た。
 その後パウリノは熱心に信仰を守り、洗礼の約束通り「悪魔とその総ての所行、その総ての栄華を捨て」ようと努めた。すなわち親戚一同の驚愕と反対とに拘わらず、進んで執政官の栄職を投げ出し、スペインのバルセロナに行き、財産の大部分を慈善事業に寄付し、愛する妻子と質素な生活に入り、名利の奴隷たる世人に恬淡の良き模範を示した。この彼の大変化を聞いた恩師アウソニオは大いに愕き、幾度となく書簡を以て言葉を以て、再び世間に起って華々しく活動せん事を勧めてきたがパウリノはその好意には感謝しつつも、悪魔の罠の多い世の顕職に就く気は毛頭なく、殊に大事のひとり子をまだ幼い内に失ってからは、妻とも相談の上互いに兄弟の如く交わり、貞潔の生活を送ることとした。
 かくてかつての大富豪は清貧に生き、享楽の代わりに慈善の業を行い、頻繁な祈りに依って天主との一致を求めた。さればバルセロナの信者達はいずれもパウリノの徳に感ぜぬはなく、しきりに司祭たらんことを勧めたから、彼もその懇望に動かされ、遂に393年キリスト御降誕の大祝日に叙階の秘蹟を受けるに至った。
 聖職者となってもパウリノの修道心は緩まなかった。彼は更に修養を心がけて信者達の引き留める袖を振りきり、バルセロナからイタリアのノラ市に赴き、自分の特別に尊敬する聖殉教者フェリクスの墓畔に住み、独り世を離れて祈りと苦行とにいそしんだ。何故彼がこの聖人をそれほど崇めたかと言えば、かつて彼が恐ろしい兄弟殺しの嫌疑をかけられた時、フェリクスの代祷を願った所、幸いにその無実が明らかとなったことがあったからである。
 パウリノの感ずべき日常がいつか人々に知れ渡ると共に、道に志す者は次第に彼の徳を慕って馳せ集まり、その指導を仰ぎつつ共同生活を行うようになった。そればかりではない、409年ノラ市の司教が逝去されるや、信徒一同は衷心からパウリノにその後任たらん事を求めた。彼はそこに逃れるべからざる天主の聖旨を認め、遂に就任を受諾した。彼の謙遜、彼の叡智、彼の博愛は、司教座という高き燭台に上せられてから、更に光輝燦然と世を照らすようになったのである。彼はあらゆる人々から敬愛せられ、当時在世の聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖ヒエロニモ等そうそうたる教父達も、彼と文通することを大いなる誇りとした位であった。
 その頃欧州には例の民族移動が起こり、ノラ市にも始めにゴート族、後にワンダル族が侵入し、掠奪をほしいままにした。その際パウリノ司教は、彼等の毒手に罹って、窮乏に苦しむ者や、奴隷にされた哀れな者を救う為に、どれほど力を尽くしたか解らない。ある伝説によれば一人の奴隷を贖う金が不足であった時、彼は自ら身代わりとなってその人を自由にしてやろうとまでしたという。全くノラ市が蛮族来寇の禍から逃れ得たのは、一にこの聖司教の努力によったと言っても過言ではない。
 さてパウリノはノラ司教たる事二十余年、よくその任を果たし、431年6月22日聖徳の報いを得て永遠の歓喜に入った。そしてその芳名は今も聖人の名簿に燦として輝いているのである。

教訓

 ノラのパウリノが聖人になったに就いては、まずその信心深い妻テラシアの影響があずかって大いに力があったといえよう。何故なら彼が始めて霊界に目を注ぐように至ったのは貞淑な彼女の感ずべき模範と勧告に端を発したからである。実にかような配偶者は天主の大いなる賜物に他ならない。されば結婚を望む者はかくの如く信仰の厚い配偶者を与えられるように祈り、既に結婚した人々は互いに相手に善き感化を与えつつ、共に相頼り相太助て天国への道を歩むよう努めるべきである。